秩序

秩序




夕焼けに暖かく包まれたの秋の公園は、無邪気な子どもたちが今日も元気に遊んでいて、高校生の男女が体を寄せあって、缶ビール片手のおじいさんが遠い昔を想い出しているかのような視線を送っていた。

歩いて3分のこの素晴らしい場所に、前に来たの、いつだっけな。

普段の僕は、日付の変わった真夜中の公園の横を足早に通り過ぎる。
何時間か後にはもう陽はのぼってしまうのだから。


今日の僕は、古びたベンチに座って、煙草に火をつけ、この暖かく優しい空間に包まれてみる。
マルボロの炎の熱さが指先に直接伝わって来る頃にはあの、懐かしい声が聞こえてきた。


10代の頃、僕はこの社会がとてもとても生きにくいものなのではないかと疑いはじめていた。
大学に入って、疑いは確信に変わった。
この4年という時間を何に使えというのか。
周りの笑顔や笑い声、一切合切の全てが僕を追い詰めてゆく。
誰も本質を見ようとしない。考えようとしない。疑わない。
人が生きる意味について。そこに費やすエネルギー。時間。なにもかも。
疑わない。
盲信と軽視しかそこには見つけられなかった。
対話はもはや止めようがなかった。睡眠時間も起きている時間も全てを奪った。
僕は大学を辞めた。カメラを持って。


長年、像のはっきりしなかったもやもやが一瞬で形と言葉を帯びる事がある。


周りと違う価値観、自分は不調和であるという自虐感、社会に適応する周りへの侮蔑と劣等感。
何もかもが言葉になった瞬間があった。
僕は帰りを急ぐサラリーマンの足を撮った。無数の足、靴。
しかしそれらは規則正しく、列を乱さず、号令でも掛けられたかのように、そして急いでいた。
シャッターを切った瞬間、思考はシフトした。対話は加速する。
真上の高架を猛スピードで走り抜けるすし詰めの通勤電車。
もっと上を轟音と共に飛んでくる旅客機。
電柱を見上げると、一羽のカラスが僕を見ていた。
もしかすると彼等のほうが、人間より賢いかもしれない。

この人間社会を支配する見えない何かを、秩序と名付けた。
僕がずっと求めていた写真のガイドラインとは、秩序正しい、僕にとって、バカバカしい街の光景と、そこからはみだしたオブジェクトと僕自身のシンクロナイズだったのだ。

それから何年もシンクロするタイミングと場所を求めて制作を続けた。
専門学校を卒業しても尚残って続けた。

24の誕生日の直前、転機は来た。
僕は会社に入った。あくまでも制作費用の足しとして。
2年たった今、大嫌いだったコマーシャルフォトの沼地の真ん中から、人に指示する立場になっていた。

僕は秩序の向こう側に渡っていたのだ。
必死になって。
誰かに認められようと。
無様で薄汚く。
ボロボロで夢も無く。
いつかのあのサラリーマンと同じように帰りを急いで。

その事実を僕は僕に隠し、欺かせ続けようとした。
亀裂にはテープを貼って。
対話の電話線を切って。

全ては僕に課せられた、秩序のために。


2本目のマルボロがすっかり灰になる頃、僕はすっかり電話線を直してしまった。
暖かい夕焼けに包まれて。
限界だったんだ。

懐かしい声がする。
対話がはじまる。

ただただ悲しく、哀しい。
もはや視線は傷だらけの足から上に上げられなくなっていた。
僕は何をしているのだろう。
僕が何をしたというのだろうか。

僕が何者か、全部正直に語ろう。

僕は誰をも信じる事ができない。
この世界に生きているという事実でさえ、信じることができない。
生まれてきたことに意味を見出そうという試みは無駄だ。
そんなものは無い。
愛、なる魔法の言葉と、種の保存の本能の結果でしかない。
だからこそ人間は生まれてきたこと、自分自身の存在に対して、意味をつくりたがる。
愛でもいい家庭でもいい地位でもなんでもいい。
でもそんなものは本質でも何でもなくて、相対的な何かだ。
どこか資本主義に似ている。
誰かが笑い、誰かが泣く。

全てが創作されたドラマで、一切をコントロールするもの、それが秩序である。
秩序がなければ、秩序の傘の下でしか、人間は生きることができないのだ。
なんと弱く脆く儚いことか。
そしてバカバカしく愚かである。

僕は侮蔑の目線を送っている。
それは鋭く、自分自信にも向けられる。

カメレオンのように表層を変化させながら。

今回の対話でわかったことがある。
僕はやっぱり秩序の中で生きることはできない。




僕は26歳になりました。
























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